2011年6月23日木曜日

日本古典文学本文データベース利用許諾願いの件

利用許諾願いに対して、「研究テーマの要旨及びその研究において、特にこのデータベースの利用を必要とする理由」をご連絡するように、ご返事をいただきました。 以下のようにご連絡申し上げますので、よろしくお願いいたします。 

1. 研究テーマ:  日本の国号の起源・変遷などについて

2.理由: 

2.1 「特にこのデータベースの利用を必要とする第一の理由」
(以下を確認するため)

  • 「古事記」には「日本」が現れない。「倭(やまと)」の使用例は人名を含めて64例、歌の中の「やまと」は10例である(神野志隆光『日本』とは何か」国号の意味と歴史)。
  • 古事記の「倭」は、万葉集において「山跡」(17回)、「倭」13回、「日本」10回、その他2回の使用となっている。(塙書房刊「万葉集総索引・CD-ROM」)。
  • 「日本書紀」においては、初出(巻第一・神代上・第四段本文において以下の記述がある。
  • 廼生大日本【日本 此云耶麻騰 下皆傚此】豐秋津洲 次生 (読み下し):廼(すなわ)ち大日本豐秋津洲(おおやまととよあきつしま)を生む。【『日本』、此を耶(や)麻(ま)騰(と)と云う。下、皆此(これ)に傚(なら)え】  その上で、全体で人名を含め219回(上記「『日本』とは何か)の使用例がある。

これは、以下を示している。

  • 古事記(やまと王権からやまと天皇制の確立まで)では、「倭」を使用している。
  • 万葉集では、「倭」より「山跡」の使用例が多くなった
  • 日本書紀では、「日本(やまと)」に統一された

なお、万葉集では319番歌に、「・・・日本之(ひのもとの) 山跡国乃(やまとのくにの)・・・」と、「日本」を「やまと」の枕詞として使用している。 この使用例は、万葉集中1箇所のみ。 

すなわち、倭⇒山跡⇒日本の変化の中で、「日本(ひのもと)之」は枕詞として現れた。 このことは、古事記・万葉集以外でも「日本(ひのもと)之」の枕詞に近い使用例がある可能性がある。

2.2 「特にこのデータベースの利用を必要とする第二の理由」
(以下を検討するため)

また、大宝律令制定の過程で、枕詞「日本(ひのもと)之」の「日本(ひのもと)」を「山跡(やまと)」に代えて使用することが決定されたと推測できるが、その発想は「日本に長期定住した先住民の発想」ではなく(古事記には「日本」は現れていない)、大宝律令の制度を提案・推進した「比較的近い渡来人の発想」である可能性がある。

2.3 「特にこのデータベースの利用を必要とする第三の理由」
(以下を検討するため)

  • 「日本書紀」において、「倭」の対中国・表記を「日本(やまと)」と統一されたが、逆にその後、国内では「やまと」は「大和」と表記されるようになった。 
  • おそらく「大倭」を「大和」としたことが想定されるが、その経緯を詳しく知りたい。
  • また、「漢詩」に対して「倭歌(やまとうた)」の名称が与えられ、それが「和歌」となったと考えられるが、その経緯についても、確認したい。

近代において「日本」が「ニッポン」となったのは、1931年の対中15年侵略戦争以降の日本軍国主義によってである経緯があります。 前年までは「にほん」がより普通でした。 (1930年10月発刊の菊池寛の雑誌「モダン日本」では、発刊の辞に「にほん」とルビがついている)

読売新聞(①2009年7月14日付け)で、1970年7月14日に「この日の閣議で日本の国名を「ニッポン」と呼ぶことに統一」という同紙(②1970年7月14日付け夕刊)の記事コピーを掲載して、その「閣議」を再確認しています。

①と関連した内容の「日本国号に関する質問主意書」(2009年6月19日付け)が政府宛てに提出されたが、それに対して、麻生太郎・内閣総理大臣は 「『日本』の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない」(内閣衆質一七一第五七〇号 2009年6月30日付け)と答弁しています。

すなわち、読売の記事は内閣総理大臣の答弁を否定して形となっています。

同時に、NHKは「おはようニッポン」のように、「日本」読み方を、「ニッポン」と統一しています。 このNHK内部ルールは、正規に登録された第三者の社名(日本赤十字社)まで、「にほん」を「ニッポン」と、するなど、異常な現象を呈しています。

日本書紀において、対中表記として「やまと」を「日本」と統一し、「古事記」を編纂しなおしたように、21世紀において、「にほん・ニッポン」の2つの読み方のある日本語を、「ニッポン」に統一しようという、読売新聞やNHKの動きがあります。

これは、文化問題としては興味深いといえますが、政治問題としては問題であるといえます。

このようなことも含めて、「特にこのデータベースの利用を必要」としています。

よろしく、お取り扱いのほど、お願い申し上げます。

2011年6月18日土曜日

「にほん」の黒い流れ  
2 移動民が定住して成立した日本民族・日本語・日本

移動民が定住して成立した日本民族・日本語・日本

ヒトやイネのDNAの研究や考古学・古文献などの研究などにもとづいて、以下の仮説が提起されている: 
  • 日本の民族は、ユーラシア大陸や南からの、大きくは「西からの」諸移動民が定住して成立してきた
  • 言葉や生活様式も移動民の定住化の中で固定化し、諸民族と不断の交流の中で影響を受けながら、独自の発展をとげた
  • 西暦1世紀前後、日本列島定住民の諸豪族に率いられる集団の中で、比較的大きな集団は、自分たちのことを「わ」と呼んでいた(あるいは中国の記録者たちはそう理解し、「倭」の文字をあてた)
  • やがて九州から近畿までに勢力をのばした、自らを「やまと」と呼ぶ「やまと王権」が誕生した
  • 「倭(やまと)王権」は、権力正当化のための歴史書として言い伝えなどを再編成し「古事記」を編纂させた。
  • 古事記では、漢文・漢字が使用された。一部「やまと」を「倭」と記したが、やがて「山跡」と記すようになるなど、固有名詞に音訳をあてる「古代特殊仮名使い」の工夫をおこなった
  • この過程で「天皇」の呼称をも工夫し、天皇の起源を神話としての神に求めた

以上を前提とすれば、以下の記述の正当性が理解できる。

関晃著「帰化人 古代の政治・経済文化を語る」(講談社学術文庫 2009年第1刷発行)の著者による「はしがき」(1956)の冒頭から:

古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、とくに本書ではっきりさせたかったことである。


「にほん」の黒い流れは、「移動民が定住して成立した日本民族・日本語・日本」を見えなくしている

上記の「古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だったということ」は、1956年に提起されているが、2011年の現在でもまだ新鮮さを保っている。

このことは、この提起が「何らかの黒い流れ」によって、見えにくくされていることを示している。

「にほん」の黒い流れ  1 日本人はるかな旅

国立博物館「日本人はるかな旅」展から



私たちはアフリカで生まれた
  • 日本人の祖先となる集団が、日本列島へ最初にやって来たのは、今から4~3万年前だった
  • 彼らは、およそ10万年前にアフリカで誕生した新人(ホモ・サピエンス)の直接の子孫であった
  • 人類がアフリカで誕生してから、新人に進化し、そして世界へ拡散していった、600万年に及ぶ長い歴史がある

マンモス・ハンター ─ シベリアからの旅立ち ─
  • 2万年以上前の旧石器時代、シベリアでマンモスを狩って暮らしていた人々がいた
  • 彼らが私たちの 祖先集団の一つであった

黒潮の民
  • およそ6万年前にアフリカを出発し東南アジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)たちは、インドネシアとその周辺を含む亜大陸を発見した
  •  
  • ある人々は、海を越え、オーストラリアとニューギニアを含む大陸へと旅立ち、また、何世代もかかって、中国や日本列島にやってきた人々もいた

成熟する縄文文化

  • およそ1万年前、温暖湿潤なモンスー ン気候が広く日本列島を覆った
  • 縄文時代人の 生活が始まった
  • 南九州では、大集落が発展したが(上野原遺跡)、約6500年前の鬼界カルデラの巨大噴火で、南の縄文文化は消滅してしまった
  • 青森県では、「海の交易センター」が成立し(三内丸山遺跡)、北海道礼文島には貝アクセサリーの工場が存在していた(船泊遺跡)
そして日本人が生まれた
  • 縄文人は、四角く立体的な顔で、小柄ながら筋肉質の身体つきをしていた
  • およそ2300年前に中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人は、長く平坦な顔で、大柄な身体つきをしていた
  • 渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成した
  • 彼らと共に渡来した文化は、在来の縄文文化と融合して、弥生文化を生み出した
  • 水田稲作技術は、食生活だけでなく、日本人の意識をも変えていくことになる
  • 海道と沖縄では、それぞれアイヌと琉球人が縄文人の姿形を色濃く残しながら、独自の文化を築いていく
  • いま、日本列島には、アイヌ・本土人・琉球人という三つの民族集団が住んでいる

「日本はなぜ負債大国になったか」

⇒ 「日本はなぜ負債大国になったか

大手メディアの黒い陰謀
「ニッポン」: 読売が仕掛け、NHKが引き継ぐ

「『日本』を『ニッポン』と呼ぶ『閣議決定』がある」と考えている人がいます。
2009年7月14日付読売新聞の記事です。

この日の閣議で日本の国名を「ニッポン」と呼ぶことに統一。‐1970年(昭和45年)‐

読売新聞は、このタイトルと1970年7月14日付け読売夕刊の記事コピーの写真を掲載し、以下の説明をのせています。

日本の国名を「ニッポン」と呼ぼう――。閣議でそう決めた日があることをご存じない方もいるのではないだろうか。

この閣議決定を報じた1970年7月15日付の読売新聞によると、それまでも「歴史的にも根拠があり、国際的にも通用している。語感が重量感にあふれていて国名にふさわしい」とする“ニッポン派”と「発音がすなおで簡明。暗い軍国主義のイメージを持つ“ニッポン”より抵抗を感じない」とする“ニホン派”の論争が続いていたが、同日の閣議で「一応の終止符が打たれたかっこう」となった。 (⇒ 全文) 

この記事は、「日本を『ニッポン』と呼ぶ『閣議決定』がある」と理解させます。

実は、記事は「意図的な誤報」といえます。 
2009年6月の衆議院での質問と答弁で確認されています。

  • 衆議院2009年6月19日提出の質問第570号:
    昭和四十五年(1970年)七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、政府は『にっぽん』を使う」との閣議決定は現在でも維持されているか?
  • 麻生太郎・内閣総理大臣の答弁:
    「『日本』の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない」
すなわち、以下が明らかです。
  • 内閣総理大臣は、2009年6月19日に、「ニッポン」で統一する閣議決定はないことを確認
  • 読売新聞は、2009年7月14日付けで、自社記事を引用して、その閣議決定がなされた」と報道
なお、NHKは「おはようニッポン」など、「ニッポン」で統一、第三者(日本赤十字社)の公式登録の社名まで「ニッポン」を適用しています(2011年6月現在)。

読売、NHKともに「黒い意図により報道がなされている」と理解できる結果となっています。

なぜ「黒い」と言えるのか? 

「ニッポン」は、1931年対中15年侵略戦争開始後、日本軍国主義が愛用した読み方で、『文藝春秋』『オール讀物』を発行していた菊池寛や、その読者は1930年まで「にほん」を使用していたのです(菊池寛によって1930年10月1日、文藝春秋社から創刊された雑誌「モダン日本」で。 発刊の辞で「にほん」とルビ)。

この流れを米国が利用したのが、1952年4月28日のNHKの「君が代」の現在まで続く連日放送の開始や、総合テレビ・コールサインJOAKの「日の丸」、読売の「ニッポン」の「閣議決定」の意図的誤報、さらに「おはようニッポン」のNHKです。

また、「米軍駐留を憲法違反とした」砂川裁判で、最高裁長官と駐日・米大使と密会の結果、最高裁判決でこれをくつがえさせられた実績と伝統をもつ最高裁の一連の「君が代強制」判決に「黒い流れ」としてつながっているのです。

さらに、マイケル・グリーン(Michael Jonathan Green, 1961年- アメリカの政治学者、専門は日本政治、特に日本の安全保障政策。現在はジョージタウン大学外交政策学部准教授、戦略国際問題研究所(CSIS)上級顧問・日本部長)の日本語の常用は、「ニッポン」であることも、黒い流れの上流の見える部分として記録されるべきことです。(朝日ニュースター 2011年6月17日 別刊 朝日新聞「迫る2プラス2 日米懸案事項を説く」)

なお、上記の質問者(前衆議院議員・岩国哲人氏)は、「中国網日本語版(チャイナネット)」のインタビューで、「天皇のシンガポールでの公的発言で23回『にほん』といっている」と証言していますが、それが「ニッポン」の閣議決定ができない理由かも知れません。 歴史の皮肉というべきです。

読売の意図的・誤報的報道: 
この日の閣議で日本の国名を「ニッポン」と呼ぶことに統一。‐1970年(昭和45年)‐

http://otona.yomiuri.co.jp/history/20090714_01.htm

この日の閣議で日本の国名を「ニッポン」と呼ぶことに統一。‐1970年(昭和45年)‐

画像の拡大

 日本の国名を「ニッポン」と呼ぼう――。閣議でそう決めた日があることをご存じない方もいるのではないだろうか。

 この閣議決定を報じた1970年7月15日付の読売新聞によると、それまでも「歴史的にも根拠があり、国際的にも通用している。語感が重量感にあふれていて国名にふさわしい」とする“ニッポン派”と「発音がすなおで簡明。暗い軍国主義のイメージを持つ“ニッポン”より抵抗を感じない」とする“ニホン派”の論争が続いていたが、同日の閣議で「一応の終止符が打たれたかっこう」となった。

 この決定に先立つこと約7年、1963年(昭和38年)9月に日本オリンピック委員会(JOC)は、翌年のオリンピック冬季大会(インスブルック)派遣選手団の胸につける国名を「NIPPON」(ニッポン)とすることを決めている。

 その根拠は、(1)総理府の世論調査では「ニッポン」を支持するものが多かった(2)紙幣の国名は「NIPPON」と表示されている(3)英語の「JAPAN」やフランス語の「JAPON」はニッポンからの転化と考えられている――の3点だった(1963年9月12日付読売新聞)。
anohi090714_02.jpg

 オリンピック選手団の場合は、「NIPPON」は6字なので胸が開くユニホームでも左右3字ずつに分けやすい、という利点も考慮されたようだ。

 さて、わざわざ閣議で統一を決めた呼称の「ニッポン」だが、「日本」を冠した固有名詞のすべてが「ニッポン」と呼ばれているかといえば、そうでもないことはご承知の通り。ANA(全日空)の商号は「ぜんにっぽんくうゆ」であり、日本テレビ放送網の英文名称は「NIPPON TELEVISION NETWORK」となっているが、日本板硝子は「にほんいたがらす」だし、日本IBMは「ニホン、と読んでいる」(広報担当)。

 もともと、ニッポンvsニホンの国名論議は、1934年(昭和9年)に臨時国語調査会が「国号はニッポン、ただし、ある種の固有名詞はニホンでもよい」と決めたことが発端。1970年の閣議決定も「便宜上、どちらかに統一する必要がある」という程度の決め方だったという。

 閣議決定翌日の読売新聞には、「日本晴れも“ニホンバレ”と“ニッポンバレ”では感じが少し違う。漢字のそのへんのニュアンスを表すためにも、読み方は両方残したほうがいいという気がする」との岩淵悦太郎・国立国語研究所所長(当時)のコメントが掲載されている。結局のところ、現在に至るまでニッポンとニホンが混在していて、だからといって大きな混乱も起こっていない。

 実はこの問題、その後も何度となく蒸し返されている。折しも政府は今年6月30日の閣議で、このニッポンvsニホン問題に対して「いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を決定したばかりだ。

 当欄ご愛読の皆さまは、古くて新しい「日本」の呼び方問題について、どうお考えだろうか? (新)


閣議決定を報じる1970年7月14日付読売新聞夕刊

日本国号に関する質問主意書および答弁

平成二十一年六月十九日提出
質問第五七〇号

日本国号に関する質問主意書

提出者  岩國哲人



日本国号に関する質問主意書


 昭和九年に文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一され、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことになった。その際、外交文書における国号の英文表記が「Japan」から「Nippon」に変更された。これについては、外交用語であるフランス語をはじめとするラテン諸語はHの音が発音されないことも考慮されたとする見解や、満洲事変の勃発とともに、「保守回帰」が起こり、穏やかな語感の「にほん」よりも音韻的に力強い「にっぽん」を選んだという経緯があったとする見解もある。
 この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議された。
 戦争中の昭和十六年には、帝国議会で、当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされたが、保留のまま法律制定には至らなかった。
 戦後、昭和二十一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされ、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁した。
 その後、昭和四十五年七月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「にっぽん」で統一する旨の閣議決定を行ったが、法制化にまでは至らなかった。
 これに関連して、以下質問する。

一 右の閣議決定は現在でも維持されているか。
二 他国で、国号の現地発音が複数使用されている国の存在を認識しているか。
三 今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。

 右質問する。

======

答弁本文情報
経過へ | 質問本文(HTML)へ | 質問本文(PDF)へ | 答弁本文(PDF)へ
平成二十一年六月三十日受領
答弁第五七〇号

  内閣衆質一七一第五七〇号
  平成二十一年六月三十日
内閣総理大臣 麻生太郎

       衆議院議長 河野洋平 殿

衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。




衆議院議員岩國哲人君提出日本国号に関する質問に対する答弁書



一について

 「日本」の読み方については、御指摘のような閣議決定は行っていない。

二について

 お尋ねについては、承知していない。

三について

 「にっぽん」又は「にほん」という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている。

======
http://digest2chnewsplus.blog59.fc2.com/blog-entry-7400.html
1:かなえφ ★ 2009/06/30(火) 20:51:01 ???0
 「にっぽん」「にほん」どちらでも――。
 政府は6月30日、「日本」の読み方についての答弁書を閣議決定した。
民主党の岩國哲人衆院議員の「日本国号に関する質問主意書」への答弁。

 「『日本』の読み方を統一する意向はあるか」との岩國氏の質問に対し、
答弁書では「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く
通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている」とした。

 岩國氏は質問主意書で「70年7月に佐藤内閣が『にっぽん』で統一する旨の
閣議決定を行った」と指摘したが、答弁書では「そのような閣議決定は行って
いない」と否定した。

asahi.com 2009年6月30日18時51分
http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200906300254.html

======
http://unkar.org/r/newsplus/1246362661
573 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:10:26 ID:ioN8luVQO

※日本書紀の日本武尊

にほんしょきのやまとたけるのみこと

593 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:16:56 ID:ii8TsgE60
>>573
日本書紀が書かれた時代と、ヤマトタケルノミコトが生きてた時代のズレですよ。
日本武尊の時代は、ヤマトの時代だったが、
日本書紀が書かれた時代にはすでに「日本」という国号があった。


575 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:10:39 ID:ii8TsgE60
>>568
日ノ本だろ。
天武だか天智だからへんの時代に自称した。

漢字に当てたら「日本」→「ジーベン」→「ジパング」→「ジャパン・ヤーパン」って西へ西へと変化した

583 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:13:05 ID:0KQPNUQt0
日本で作られた酢だから
ポン酢

豆知識な。

592 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:15:58 ID:6FloLh7s0
>>583
そうなると日本人を引くからポン引き?


595 :名無しさん@十周年[sage]:2009/06/30(火) 23:17:52 ID:HMp1J2TC0
ニッポンとカンコクの共同開発した果実がポンカン

596 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:18:13 ID:GHDGkC7kO
日本大学
にほんだいがく

日本体育体育
にっぽんたいいくだいがく
597 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:18:23 ID:8eVH0XlD0
日本橋 (東京都中央区)(にほんばし)
日本橋 (大阪府)(にっぽんばし)
日本橋 (福島県)(ひもとばし)

福島の日本橋も忘れないでくださいw

619 :名無しさん@十周年:2009/06/30(火) 23:28:04 ID:ii8TsgE60
>>612
「朝鮮」の呼び名は中国流だからな。
日本流では、「韓」なんだが
欧米流では「高麗」だし


651 :名無しさん@十周年[sage]:2009/07/01(水) 00:05:05 ID:GogsZRHI0
>>647
8世紀のはじめ頃だと思う。
遣唐使が日本という国号を名乗ったので、唐の役人には倭国との関係が
わからず混乱したらしい。

661 :名無しさん@十周年[sage]:2009/07/01(水) 00:10:24 ID:wUQRrkO90
音読みだからわけがわからなくなるんだよ
訓読みで「ひもと」にすれば解決。
662 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 00:11:58 ID:cps2Hm1U0
どっちもおかしい。ふつうによめば「にちほん」
663 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 00:12:29 ID:pCenOKU0O
発音は長らく

にふぉん

じゃなかったか?
宣教師が作製したイソップ物語のローマ字表記翻訳本では NIFON が散見されるぞ。

665 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 00:14:55 ID:Q+rg4/3k0
一本:いっぽん
二本:にほん
三本:さんぼん
四本:よんほん

だから、にほん と にっぽん を認めるのならば、

にぼん ってのも理論的には存在しなくてはいけない。

688 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 00:30:02 ID:Q+rg4/3k0

世論 よろん せろん

も、どちらかに統一してくださいなw

689 :名無しさん@十周年[sage]:2009/07/01(水) 00:30:55 ID:AjcoVOOe0
>>688
それ言うなら、
重複 じゅうふく ちょうふく

も統一して欲しいがね

711 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 00:41:32 ID:FPgYq40yO
>>684
銀座に日本橋は存在しない。
銀座の隣が京橋で、そのまた隣が日本橋。
固有名詞だから読み方は一通りしか無いよ。
ちなみに、大阪の日本橋は「にっぽんばし」と読むらしい。

716 :名無しさん@十周年[sage]:2009/07/01(水) 00:43:06 ID:cECOOIheO
こういう、いつまでたっても決着がつかないのって
いかにも日本らしくて結構好きだ

717 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 00:44:17 ID:0TqR/Kgp0
>>1
>『日本』の読み方を統一する意向はあるか

いっぽん
にほん
さんぼん

馬鹿な事に時間を割いてんじゃないよ。

765 :名無しさん@十周年:2009/07/01(水) 01:10:05 ID:uCewEnxe0
鳥取でも取鳥でもいいじゃないかと思う事はある

806 :名無しさん@十周年[sage]:2009/07/01(水) 01:37:28 ID:mkNOtiV+0
NHKは”にっぽんほうそうきょうかい”なのに、NHKからの振込みは“ニホンホウソウキョウカイ”だった。
最初いたずらかとおもたよ。

807 :名無しさん@十周年[sage]:2009/07/01(水) 01:39:08 ID:gOVwf9z90
>>806
「エヌ・エイチ・ケー」自体、もはや「エネーチケー」だからなあ。

2011年6月17日金曜日

「古事記」口語訳

http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%89%E6%B5%A6-%E4%BD%91%E4%B9%8B/dp/4167725037/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1308239250&sr=8-7
古事記講義 (文春文庫) [文庫]
三浦 佑之

古事記の神話・伝承は、様々な情報の宝庫である。『口語訳古事記』で記紀ブームの先駆けとなった著者が、四つのテーマからその深みに迫る、初心者にも専門家にも刺激的な集中講義。古事記で語られる伝承の多くは、権力に向き合い、あらがって滅び去る者たちへの共感を抱えている

口語訳古事記 完全版 [単行本]
三浦 佑之 (翻訳)

いま、あざやかに蘇る日本誕生の物語。詳細な注釈、読みやすい語り言葉で綴られた決定版現代語訳。古事記の原型に近い「語り」を生かした口語体による完訳版。古事記研究の最前線に立った詳細な注釈。古事記の書かれた時代背景の理解に役立つ解説。地名・氏族名解説、神々および天皇の系図、地図など豊富な資料。古事記に登場する動物・植物のイラスト入り。詳細な三種の索引(神・人名、動物・植物名、注釈事項・語彙)付き。

2011年6月14日火曜日

移動民が定住して成立した日本民族・日本語・日本

ヒトやイネのDNAの研究や考古学・古文献などの研究などにもとづいて、以下の仮説が提起されている: 
  • 日本の民族は、ユーラシア大陸や南からの、大きくは「西からの」諸移動民が定住して成立してきた
  • 言葉や生活様式も移動民の定住化の中で固定化し、諸民族と不断の交流の中で影響を受けながら、独自の発展をとげた
  • 西暦1世紀前後、日本列島定住民の諸豪族に率いられる集団の中で、比較的大きな集団は、自分たちのことを「わ」と呼んでいた(あるいは中国の記録者たちはそう理解し、「倭」の文字をあてた)
  • やがて九州から近畿までに勢力をのばした、自らを「やまと」と呼ぶ「やまと王権」が誕生した
  • 「倭(やまと)王権」は、権力正当化のための歴史書として言い伝えなどを再編成し「古事記」を編纂させた。
  • 古事記では、漢文・漢字が使用された。一部「やまと」を「倭」と記したが、やがて「山跡」と記すようになるなど、固有名詞に音訳をあてる「古代特殊仮名使い」の工夫をおこなった
  • この過程で「天皇」の呼称をも工夫し、天皇の起源を神話としての神に求めた

以上を前提とすれば、以下の記述の正当性が理解できる。

関晃著「帰化人 古代の政治・経済文化を語る」(講談社学術文庫 2009年第1刷発行)の著者による「はしがき」(1956)の冒頭から:

古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、とくに本書ではっきりさせたかったことである。

2011年6月13日月曜日

古代の帰化人は、われわれの祖先、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だった

関晃著「帰化人 古代の政治・経済文化を語る」(講談社学術文庫 2009年第1刷発行)の著者による「はしがき」(1956)の冒頭に、以下の記述がある(抜粋)。
 
古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、とくに本書ではっきりさせたかったことである。

従来、・・・その活躍がことさらに軽くみられる傾向が強かった。

また、そうでない場合でも、正当な資料批判を経ないで、記紀などの記載をそのままに、彼らの歴史を構成するのが普通だった。

さらに最近では、史料批判の上に立って彼らの活躍をできるだけ跡付けることを省略し、理論などによって直ちに古代社会の形成を考えることが多くなった。・・・

また、同書の著者による「結び」(1955)には、以下の記述がある(全文)。

以上、乏しい史料にかなりの推測を加えて考えてきたことは、七世紀後半、律令制の形成の上で特に重要な時期にもかかわらず、唐との直接の交渉が杜絶(とぜつ)していた期間に、日朝関係が大陸文化摂取の上に非常に大きな意義をもっていたということであり、またその期の日羅交渉の実体の一端を示してくれる新羅学問僧なるものが、従来あまり注意をはらわれることがなかったけれども、その役割をもっと大きく評価されるべきだということである。

それは日唐直接交渉の一時的な代用物として、軽く見過ごすべきではないであろう。 当時の日本側が、遣新羅使を送ることに以外に熱心だった理由も、こういう面からよりよく説明できるのであった、この期における遣新羅使のもつ文化史的意義を改めて認識することが必要だと思われるのである。
(「山梨大学学芸学部研究報告」六、昭和三十年)

参考: ⇒ 万葉集は、その源流をどこに求め、どんな課題を提供しているか?

古事記「偽書説」について

岩波文庫「古事記」(倉野憲司校注 1962)の巻末「解説」に以下の記述がある。

古事記(序文、または序文も本文も)の和銅成立に疑いを抱き、これを後の偽作であるとする説をなすものがある。 それを列挙すると次の通りである。

  賀茂真淵(宣長宛書簡)
  沼田順義(「級長戸風」の端書)
  中沢見明(「古事記論」)
  筏勲(「上代日本文学論集」、「国語と国文学」第三十九巻第六・七号)
  松本雅明(「史学雑誌」第六十四編第八・九号)

これらの説は、、その論旨や論拠は必ずしも一様ではないが、一応もっともな疑問と思われる点を含んでいる反面、明らかに誤りと認められる点や論拠の薄弱な点も多く、今日これらの儀諸説を是認する人はほとんどないと言ってよい。

特に上代特殊仮名遣からすれば、古事記がなら時代の初期に成立したことは疑い無いとこれである。

ただし、儀諸説が提示した正当と思われる疑義については、これを十分に取り上げて解明する努力が必要であろう。

橋本進吉(1882-1945)の「古代国語の音韻に就いて」(岩波文庫、岩波書店 初版発行日 1980)[青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000061/card510.html 底本: 「古代国語の音韻に就いて 他二篇」 出版社: 岩波文庫、岩波書店 初版発行日:1980 入力に使用: 1985 第8刷]には、以下の記述がある。

『古事記』について、数年前偽書説が出て、これは平安朝初期に偽造したもので、決して元明(げんめい)天皇の時に作られたものでないという説が出ましたが『古事記』の仮名を見ますと、前に述べたように、奈良朝時代にあった十三の仮名における両類の仮名を正しく遣い分けてあるばかりでなく、『古事記』に限って、「モ」の仮名までも遣い分けてあります。

そういう仮名の遣い分けは、後になればなるほど乱れて、奈良朝の末になると、その或るものはもう乱れていると考えられる位であり、平安朝になるとよほど混同しています。もし『古事記』が、平安朝になってから偽造されたものとすれば、これほど厳重に仮名を遣い分けることが出来るかどうか非常に疑わしいと言わなければなりません。そういう点からも偽書説は覆(くつがえ)すことが出来ると思います。

また近年出て来た『歌経標式(かきょうひょうしき)』でありますが、奈良朝の末の光仁(こうにん)天皇の宝亀年間に藤原浜成(ふじわらのはまなり)が作ったという序があって、歌の種類とか歌の病(やまい)というようなことを書いたもので、そんな時代にこんな書物が果して出来たかどうか疑問になるのであります。しかし、その中に歌が万葉仮名で書いてあります。その仮名の遣い方を見ますと、オ段の仮名の或ものは乱れているようでありますけれども、大抵は正しく使いわけてあって、ちょうど、奈良朝の末のものとして差支ないと認められます。そういう点から、この書は偽書でなかろうということが出来るのであります。

附録 万葉仮名類別表

[#底本では、同じ仮名の各類を、行頭に置いた仮名の後で「{」を用いて括っている。また、同類の清音と濁音の行の下に、まとめて「甲類」「乙類」等の類別を記している。]
エ 愛哀埃衣依・榎可―愛[#「可―愛」で一つのよみ]荏得 ア行
エ 延曳睿叡遙要縁裔・兄柄枝吉江 ヤ行
キ〔清音〕 支岐伎妓吉棄弃枳企耆祇祁・寸杵服来 甲類
キ〔濁音〕 藝岐伎儀蟻祇※ 甲類
キ〔清音〕 帰己紀記忌幾機基奇綺騎寄気既貴癸・木城樹 乙類
キ〔濁音〕 疑擬義宜 乙類
ケ〔清音〕 祁計稽家奚鷄※谿渓啓価賈結・異 甲類
ケ〔濁音〕 牙雅下夏霓 甲類
ケ〔清音〕 気開既※概慨該階戒凱※居挙希・毛食飼消笥 乙類
ケ〔濁音〕 宜義皚※碍礙偈・削 乙類
コ〔清音〕 古故胡姑※枯固高庫顧孤・子児小粉籠 甲類
コ〔濁音〕 胡呉誤虞五吾悟後 甲類
コ〔清音〕 許己巨渠去居挙虚拠※興・木 乙類
コ〔濁音〕 碁其期語馭御 乙類
ソ〔清音〕 蘇蘓宗素泝祖巷嗽・十麻磯追―馬[#「追―馬」で一つのよみ] 甲類
ソ〔濁音〕 俗 甲類
ソ〔清音〕 曾層贈増僧憎則賊所諸・其衣襲※彼苑 乙類
ソ〔濁音〕 叙存※鋤序茹 乙類
ト〔清音〕 刀斗土杜度渡妬覩徒塗都図屠・外砥礪戸聡利速門 甲類
ト〔濁音〕 度渡奴怒 甲類
ト〔清音〕 止等登※騰縢臺苔澄得・迹跡鳥十与常飛 乙類
ト〔濁音〕 杼縢藤騰廼耐特 乙類
ノ 怒弩努 甲類
ノ 能乃廼・笶箆 乙類
ヒ〔清音〕 比毘卑辟避譬臂必賓嬪・日氷檜負飯 甲類
ヒ〔濁音〕 毘※妣弭寐鼻彌弥婢 甲類
ヒ〔清音〕 非斐悲肥彼被飛秘・火乾簸樋 乙類
ヒ〔濁音〕 備眉媚縻傍 乙類
ヘ〔清音〕 幣弊※蔽敝平※覇陛反返遍・部方隔重辺畔家 甲類
ヘ〔濁音〕 辨※謎便別 甲類
ヘ〔清音〕 閇閉倍陪杯珮俳沛・綜瓮缶甕※※経戸 乙類
ヘ〔濁音〕 倍毎 乙類
ミ 美彌弥瀰弭寐※民・三参御見視眷水 甲類
ミ 微未味尾・箕実身 乙類
メ 売※謎綿面馬・女 甲類
メ 米毎梅※妹昧※・目眼海―藻[#「海―藻」で一つのよみ] 乙類
モ 毛 甲類
モ 母 乙類
ヨ 用庸遙容欲・夜 甲類
ヨ 余与予餘誉預已・四世代吉 乙類
ロ 漏路露婁楼魯盧 甲類
ロ 呂侶閭廬慮稜勒里 乙類

○以上は普通の仮名の別に相当しない十三の仮名、および『古事記』における「モ」の仮名に当る万葉仮名の類別のみを挙げたのである。

○同じ字が清音と濁音とに重出しているのは、或る書ではこれを清音に用い他の書ではこれを濁音に用いたものである。


宇治谷孟・「日本書紀(上)」(講談社学術文庫(1988)の著者による「まえがき」には、以下の記述がある。

万葉仮名の漢字使用に、甲類・乙類という二種の区別があり、その理由が解明困難であったところ、当時記録にかかわった人たちの、出身地の方言の相違 ── 百済系・新羅系の二系統があることに因(よ)るものかという、指摘がされている。


この指摘の引用は、重要な引用である。
しかし、その出典に関しては明記されていない。 

わずかに、その指摘の前に「近頃は韓国生まれの人の、日本古代史研究者も少なくない。古代朝鮮語で読むと、従来、日本人の思いもかけなかった、奇抜な理解の仕方があることを知らされた」と「学術的な」記述があるだけである。

「日本書紀」および、古代日本史、日本人・日本語の起源と歴史などについては、現時点では(少なくとも1988年までは)学術レベルも十分ではなかったようだ。

上記引用の正確な出典に関しては、今後の研究をまたなければならない。 (参考: ⇒ 「橋本進吉「古代国語の音韻について」

ホームページ「古代史獺祭 : こだいし だっさい」(http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/index.htm 古事記」原文と読み下し文の検索可能なデータベースが提供されている。作成経緯・作成者に関する記述なし)の冒頭に以下の記述がある。
「古事記」 は八世紀初頭、その序文によれば 和銅五年(西暦712年) に成立したわが国最古の典籍とされています。 旧来 「偽書」 であるとの説もありましたが、昭和五十四年 に奈良県で選者とされる 太安万侶 の墓誌が発見され、いまやこれを 「偽書」 とする説はあまり見かけることはなくなりました。

2011年6月10日金曜日

核への「ノー」貫くべきだった 村上春樹氏がスピーチ

【バルセロナ共同】
村上さんはスピーチで、東日本大震災と福島第1原発事故 に触れ、原爆の惨禍を経験した日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べた。

村上さんは福島第1原発事故を「(日本にとり)2度目の大きな核の被害」と表現。戦後日本の核に対する拒否感をゆがめたのは「効率」を優先する考えだとした。


村上さんが述べなかったこと:
  • 安全神話を推進したのは、米・財界の自己利益のためであったこと
  • NHKや大手メディアが大いに協力したこと、現在でもその十分な反省なく危険を過小報道していること
  • 現在は、その延長である「大連合」を宣伝していること
  • それは、放送法違反で、世論・選挙・政治をゆがめていること
  • その結果、財政・年金・生活・平和をゆがめていること
  • 多くの文化人は、それに口を閉ざしていること

7.万葉集は、その源流をどこに求め、どんな課題を提供しているか?

前提(添付参考資料: ⇒ 「国立博物館・日本人はるかな旅」から):

  • 日本人の祖先集団が、日本列島へ最初にやって来たのは、今から4~3万年前である
  • 彼らは、10万年程前にアフリカで誕生した新人(ホモ・サピエンス)の直接の子孫である
  • 日本列島における人類の歴史の見る前に、人類がアフリカで誕生してか ら、新人に進化し、そして世界へ拡散していった、600万年に及ぶ長い歴史がある
この発表での仮説:
  • 人類には600万年の発展の歴史がある
  • 人類は、集団社会をつくり、食を求めて長い旅をしながらそれぞれの文化を作っていった
  • その過程で言語が発達し、複雑化し、やがて定住化とともに整理された文法体系を確立する
  • 日 本語で発達している助詞は、格変化語尾が独立した形であると考えられる(言語の基本文の構造[主語(S)+述語(V)+目的語(O)]を考えた場合、 S/V/Oを決定するのは語順(英語・中国語)か、活用または格変化(インド・ヨーロッパ語族)である。 日本語においては、活用語尾・格変化語尾が独 立・音節化して助詞となったと理解できる)
  • 日本語の起源は、インド・ヨーロッパ語族からヘブライ語・アラム語まで遡ることができる可能性がある。 (今後の文化人類学・言語学・比較宗教/神話学など関連諸研究を待つ必要がある)
  • 倭人は、そもそも大陸・半島・一部は南から移動してきた人たちが日本列島に定住した結果であり、定住後も常に大陸・半島との人と文化の交流があった。 それが「東アジアの中の日本」の意味である
  • 記紀・万葉の文字化も、大陸・半島からの渡来人と先住民族との協力関係の中でおこなわれた。 先住民族自体も大陸・半島などからの渡来人の混合された子孫であった。(人麻呂・万葉編纂者は、そのことをよく理解していた)
記紀・万葉研究の提供する課題:

記紀・万葉研究が提供する課題には、以下が含まれる。

  • 日本人・日本語の(科学的な)起源は?
  • 日本語「助詞」の起源は?
  • 人麻呂は、古代朝鮮語を理解していたか? 
  • 人麻呂は、万葉集の編纂にどのように、どの程度かかわっていたのか?
  • 人麻呂と渡来人とのより詳細な人脈図は?

[top] ⇔ [next]

8.万葉集は、失われた歌への挽歌、抑圧への抵抗、自由へのあこがれの詩集である

巻二・挽歌冒頭5首をめぐって種々検討してみると、万葉集に関して以下の理解をしたいとの気持ちを抑えることができない。 これも、今後の課題である。

  • 万葉集は、日本の古典であり、人麻呂・編纂者にとっては自分が属する倭(やまと)民族の文化であり、歴史であり、精神であった
  • それは東アジアの中の日本としての倭(やまと)の存在意義でもあった
  • 同 時に指導者・権力者を中心とする民族統合の象徴であった。 他方では公的に意識はされなかったが、権力抗争の中で失われた精神遺産への挽歌、権力者による 抑圧と政争・戦争に対する反感・抵抗、自由へのあこがれの詩集でもあった(その要素は、相聞・挽歌の質が強調されればされるほど、結果としてはっきりと現 れてこざるを得ない)
  • その意味で、万葉集は古典であると同時に、現代の文学でもある ─ 人麻呂は、古代の詩人でもあるが、現代の詩人でもある
  • 人麻呂が真に古典となるときは、日本に文芸復興の段階がくるのかもしれないが、それは日本人・日本語の起源が科学的に解明された後のことであるのかもしれない ・・・
⇒ [top]

万葉集 第141~145歌 (巻二・挽歌)



自己設定目標:

  1. 「万葉」とは「よろづのことのは」か「万世(よろづのよ)」か?
  2. 「挽歌」とは何か?
  3. データベース利用の試み


参考資料:

  1. 仙覚全集(万葉集叢書)臨川書店 1971
  2. 万葉代匠記 第1巻 早稲田大学出版部 1925
  3. 万葉集 鶴久・森山隆 (株)おうふう 初版 1972
  4. 万葉集一・(日本古典文学大系) 高木市之助・五味智英・大野晋 岩波書店 1957
  5. 万葉集一・第1巻(新 本古典文学大系)  佐竹昭広・山田英雄・工藤動力男・大谷雅夫・山崎福之 岩波書店 1999
  6. 「日本人はるかな旅」展 国立博物館バーチャル展示室 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/index.html 2001
  7. 万葉集総索引 (CD-ROM) 古典検索刊行会編 塙書房 2009



自己設定目標についての結論:

 万葉集:
  1. 「万 葉」には、「よろづのことのは」と「よろづのよ」の二つの意味が込められている。 万葉集の歌集名には「後世を含め、身分を問わず、あらゆる時代のすぐれ た歌を集め、『倭(やまと)の精神遺産』の記録としての歌集」の意味と希望を持たせたものと理解できる。 (発表内容1
  2. また、「よろづのよ」には、倭(やまと)言葉表記・倭(やまと)歌の形式の確定に参画した渡来人・帰化人・その二世以降の「倭」での活動が文化的により重要であった、東アジアの人々と「倭定住民」との協力の、万葉編纂以前の時代をも含むとの意識も含まれていた。 (同上)
  3. 「挽 歌」は、「柩(ひつぎ)を引くときの歌」の原義より、より広い意味を持つ「部立て」の名称とされた。 万葉集編纂者の頭には、文字化ができず収録に失敗 し、あるいは政変の中、失われた万葉集以前の膨大な歌と、倭(やまと)言葉表記システム確定の過程での「文字化の規則」の、記録として残っていない記憶が ある。 挽歌とは、これらに関与した人々について、その正当な評価の気持ちも秘められていると理解できる。 (発表内容2
  4. 記 紀と同様に、万葉集には権力(天皇制)正当化の側面を持つ。 同時に、意識されてはいないが、はっきりと表明されている「権力および権力による抑圧への批 判と抵抗、東アジアの中の「倭(やまと)」の意識、民族的精神遺産保存の主張、歴史の中で失われた歌への挽歌、平和と自由への憧れ」などの諸側面がある。  (発表内容3
  5. 柿本人麻呂は、その精神を持っていたからこそ、処刑の運命を担うことになった。 あるいは、少なくとも自身の最後を知ることのできない立場を受け入れた(巻三・第264歌)。 (発表内容6
  6. 人麻呂の歌は、現代でも最も人間らしい、人間の尊厳を自身の運命の上に置いた精神の反映である。 人麻呂を重視した万葉集もまた、その精神を重視しているといえる。 (同上)
  7. 万葉集の源流は西にある。 さらに、その源は人類発生につながり、ヒトのDNA・諸文化の流れの中で、日本語や記紀・万葉などの古代記録は誕生した。 記紀・万葉などの文字記録は、日本人、日本語の誕生にも関する課題をも提供している。 (発表内容7



 データベース:

検索可能なデータベースを積極的に利用するべきであると同時に、学会として古代記録や各種研究のデータベース化を組織的に拡充するべきである。 (添付資料)

(伝統と文化を守る国の立場から、歴史・考古学などの隣接諸科学をも含めた国文学研究予算を拡充するべきである)

 その他:

宮 内庁管理の「古墳を含めた諸歴史遺産」研究の制限をはずすべきであり、歴史資料の隠匿・改ざん・破棄などを許すべきではない。 北京原人の頭蓋骨は、対中 侵略戦争の中で日本軍が関与した過程で失われた。 戦争は、人間だけではなく、文化遺産をも破壊する。 植民地支配・侵略戦争の結果である略奪文化財は、 それを生んだ諸民族に返却するべきであり、それが自民族文化を大切にすることでもある。

日本の考古学の分野では、少なくともエジプトのレベルまでは追いつくべきである。


発表内容:

  1. 「万葉」は「万の言の葉(よろづのことのは)」か「万世(よろづのよ)」か?
  2. 「挽歌」とは、何か?
  3. 人麻呂と万葉集は、挽歌で何を傷んだのか?
  4. 万葉集の歌は、歌として完成した形を持っている
  5. 万葉集以前の歌は、どういう歌であったか?
  6. 人麻呂は、どのように歌の技法をみがき、倭(やまと)歌を発展させたのか?
  7. 万葉集は、その源流をどこに求め、どんな課題を提供しているか?
  8. 万葉集は、失われた歌への挽歌、抑圧への抵抗、自由へのあこがれの詩集である
  9. データベースについて(添付参考資料参照)

[top] ⇔ [next]  

国立博物館 「日本人はるかな旅」展から

(参考添付資料) 国立博物館 「日本人はるかな旅」展から



第1章 私たちはアフリカでう生まれた

私たち日本人の祖先となる集団が、日本列島へ最初にやって来たのは、今から4~3万年前だったと考えられます。彼らは、お よそ10万年前にアフリカで誕生した新人(ホモ・サピエンス)の直接の子孫でした。日人類の歴史を見る前に、人類がアフリカで誕生してか ら、新人に進化し、そして世界へ拡散していった、600万年に及ぶ長い歴史を振り返ってみましょう。


第2章 マンモスハンター ─ シベリアからの旅立ち ─

シベリアは、かつて「白い静寂の大陸」あるいは「マンモスの大陸」とも呼ばれた地域です。アフリカで誕生した人類が、な ぜ、この酷寒のシベリアをめざしたのでしょうか。人類史の七不思議のひとつであり、今なお確かな理由はわかりません。しかし、2万年以上前の旧石器時代、 技術開発と創意工夫によって寒さに挑戦し、ついには寒さを味方にして、シベリアでマンモスを狩って暮らしていた人々がいたのです。そして、彼らが私たちの 祖先集団の一つであったことが近年の研究で明らかにされています。


第3章 黒潮の民 ─ スンダランドからの旅立ち ─

およそ6万年前にアフリカを出発し東南アジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)たちは、海水面の低下によって生じた広 大なスンダランド(インドネシアとその周辺を含む亜大陸)を発見しました。彼らは、気候がよく豊かな食物資源に恵まれていたスンダランドで人口をふやし、 次への発展に備えていました。
ある人々は、海を越え、東隣のサフールランド (オーストラリアとニューギニアを含む大陸)へと旅立っていきました。また、陸を踏破し海を越え、何世代もかかって、中国や日本列島にやってきた人々もいたことでしょう。


第4章 成熟する縄文文化

およそ1万年前の完新世になると、黒潮の分流が対馬海流となって日本海側にも進入し、現在と同じように温暖湿潤なモンスー ン気候が広く日本列島を覆いました。各地に実り多い恵みをもたらす森林が発達した結果、陸海のさまざまな食料資源を活用し、豊かな文化を育む縄文時代人の 生活が始まったのです。
南九州では、豊かな照葉樹林のなかで大集落が発展しましたが(上野原遺跡)、約6500年前の鬼界カルデラの巨大噴火で、南の縄文文化は消滅してしまいま した。青森県では、対馬海流を利用した「海の交易センター」が成立し(三内丸山遺跡)、北海道礼文島には貝アクセサリーの工場が存在していました(船泊遺 跡)。


第5章 そして日本人が生まれた

縄 文人は、四角く立体的な顔で、小柄ながら筋肉質の身体つきをしていました。およそ2300年前に中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人は、長く平坦な顔 で、大柄な身体つきをしていました。彼ら渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成しました。彼らと共 に渡来した文化は、在来の縄文文化と融合して、弥生文化を生み出しました。水田稲作技術は、食生活だけでなく、日本人の意識をも変えていくことになりま す。
渡来系弥生人の影響が少なかった北海道と沖縄では、それぞれアイヌと琉球人が縄文人の姿形を色濃く残しながら、独自の文化を築いていきます。その結果、いま、日本列島には、アイヌ・本土人・琉球人という三つの民族集団が住んでいるのです。
(以上 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/index.html から)
⇒ [top]

2011年6月9日木曜日

6.人麻呂は、どのように歌の技法をみがき、倭(やまと)歌を発展させたのか?

第146歌は、巻二・挽歌冒頭第6首である。

後見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを またも見むかも (146)

この歌は、巻二・挽歌冒頭の有馬皇子の第141歌を受けている。

磐代の 濱松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む (141)

これは、人麻呂が同時代の歌に精通していることを示している。 どのようなルートを通じてか? 少なくとも、万葉集編纂者となんらかの情報交換があり、データへの自由なアクセスが認められていたことを示す。

同 時に、人麻呂の歌の内容と質から見れば、彼は万葉以前の歌にも精通していたし、倭(やまと)言葉の表記法の諸規則にも通じていた。 これは、現在では残っ ていない、それらの諸データや関係者とも情報交換があり、データへの自由なアクセスが認められていたことを示す。 ただし、それらの諸データは、人麻呂の 時代に政変の過程で大部分が消失している。

民族の精神遺産の消失と、精神遺産を残し、発展させなければならない思いが、万葉集編纂者と人麻呂の思いのひとつでもあったと理解したい。 それが万葉集編纂の意図・要因のひとつである。

ここから、万葉集と人麻呂は倭(やまと)民族の精神の継承者であり、発展者であった。 そこには、渡来人と在来人の区別意識はなかった。 権力への反抗の意識もなかったが、同時に権力による抑圧からの苦しみ・自由へのあこがれも同時に共存していた。

データへのアクセスと、権力による抑圧や戦争による苦しみ、そこから生じる自由・平和への直接表現はできないが、心の底からの思い、平行する愛する女性との離別をはさんだ愛、それが人麻呂の歌の技法のもとであり、倭(やまと)歌発展の原動力であった。

その思いは、万葉編纂者も人麻呂と共有していた。 そこに人麻呂が万葉集で重視されている理由がある。

その意味で、現代は人麻呂と万葉集をまだ超えてはいない。

[top] ⇔ [next]

5.万葉集以前の歌は、どういう歌であったか?

万葉以前の歌は、以下のようなものであったと考えられる。

  • 五・七のリズムは確定されていないが、その原型となるような、各種のリズムがあった
  • 民謡の形で、その中のすぐれ歌が残されて発展してきた
  • 民謡の一般特徴として、繰り返しが効果的に採用され、単純な繰り返しをさける技法が徐々に発展し、倭(わ)歌の原型が徐々に作られてきた(⇒下記の巻一・第1歌の前半)
  • 渡来人たちによる大陸および半島文化の導入により、大きく影響を受け、その過程で歌の形式、倭(やまと)言葉の音節表記法が確立されてきた
  • 漢詩の長歌、七言絶句、五言絶句の形式(句数、韻、対句、起承転結などの形式)は倭(やまと)歌に大きな影響を与えた
  • 倭 (やまと)言葉による歌の文字化(古代特殊仮名、万葉仮名)には、渡来人と在来人との間の長期にわたる交渉・協調関係があり、徐々に規則化されてきた。  記紀・万葉の時代にはそれが完成されていた。 その規則化(コードブック)は、ある時点で失われたが、人麻呂・万葉編纂者はその成立過程・内容・喪失の過 程などについて十分な知識をもっていた(そうでなければ、彼らがすぐれた歌を作り、記録することはできなかった)
巻一・第1歌(雄略天皇の作と記録されている)の前半部分は、以下のとおりである。 (参考資料3)

籠毛與  美籠母乳
こもよ   みこもち

布久思毛與 美夫君志持
ふくしもよ   みふくしももち

此岳迩    菜採須児   家告閑    名告紗根
このおかに  なつますこ  いえのらせ  なのらさね


この部分は、三・四、五・七、五・五、五・五の美しいリズムをもっている。 五・七の主要リズム制はとっていないが、リズム固定化の前の段階のリズムであると理解できる。

単音節・2音節の共通音による押韻、対句、繰り返し、序詞などの基本技法も自然な形で取り入れられている。 内容としても労働する民衆の感情を表現している。 おそらく長く歌われてきた民謡の一部であった可能性がある。

全 体として、万葉集の歌の基本特徴の固定化の過程が見られる。 この歌は一首だけ単独に作られたものではなく、同種の歌が民謡として膨大にあり、その中のい くつかが特に長期に広く愛され、その一つが万葉集に収録されたと考えたい。  (参考: 「万葉集と東アジア  ─ 太陽は東から昇り、文字は西から渡来 する」https://sites.google.com/site/manyoushuutohigashiajia/ [日大文理学部国文科・古代文 学入門1の本発表者の課題レポート] 2009)


[top] ⇔ [next]

4.万葉集の歌は、歌として完成した形を持っている

約4500首の万葉集の歌には、共通した特徴がある。

  • 漢字による倭(やまと)言葉の音節表記(万葉がな)
  • 五・七のリズム
  • その他の諸特徴
    • 長歌・短歌などの形式
    • 公的(とくに権力と関係し、権力を正当化する)歌と私的な心情を歌った歌 ─ 後者は、意識はされていないが、権力に対する批判、権力よる抑圧への反感、争い(権力抗争・戦争)のない環境・平和への志向、自由に対するあこがれなどを結果として表現している
    • 枕詞、序詞、掛詞、繰り返し、対立表現、単音節の音韻などの諸技法
これらの特徴は、以下のことをはっきりと示している。
  • 万 葉集以前に、倭(やまと)に特徴的な民謡を主体とする歌の蓄積があった。 その重要な部分は始原的な漢字による音節表記によって、記録され、その過程で倭 (やまと)言葉の漢字による文字表記のルールが確立されてきた。 収集された歌や、文字表記のルールブックなどは、重なる権力抗争の中で失われてしまっ た。
  • 人麻呂や万葉編纂者は、それらの歴史を知り、その記録にアクセスできた。 彼らは先人たちが残した精神文化の意味を知り、それを自分の、また全体の財産として命と同様に大切にしていた(だからこそ、歌の一定のレベルに達することができた)
  • 万葉集が現代に残されているのは奇跡だと言われているが、その奇跡の背後には人麻呂や万葉編纂者たちの倭(やまと)の精神遺産を守る強い意志があった。
[top] ⇔ [next]

3.人麻呂と万葉集は、挽歌で何を傷んだのか?

巻二・挽歌(全巻の中で最初の「挽歌」の冒頭6首)で、人麻呂と万葉集は何を傷み、何を表現したのだろうか? 
  • 有馬皇子個人の死、あるいはその運命を傷んだ
  • 有馬皇子の策謀が功を奏した場合に、期待できたはずのことを傷んだ
この2つが傷みの対象だとは、なかかな理解しがたい。
  • 有馬皇子を例とする過去・現在の権力闘争全体の犠牲者一般を傷んだ
  • 繰り返される権力闘争への批判、争いと抑圧への反感、全体として平和と自由の欠如、これらを意識しないが、結果として表現した
  • 政変の度に、失われる(やまと)の精神遺産である歌や歴史などの諸文献を傷んだ
万葉集では「挽歌」の意味が積極的により広く解釈されていることから、人麻呂と万葉集が傷み、表現しようとしたのは、ここでは少なくともこのようなこと全体ではないかと理解したい。

[top] ⇔ [next]

2.「挽歌」とは、何か?

「挽歌」とは、「柩(ひつぎ)」を引くときに歌う歌」が原義であると理解されている。 
「挽歌」は、万葉集の3大部立てのひとつである。
その最初の挽歌が、巻二の課題歌(第141~145)である。

この「挽歌」としての冒頭5歌の共通左註として、以下の註がある。

右の件(くだり)の歌どもは、柩(ひつぎ)を挽(ひ)く時作るところにあらずといへども、歌の意(こころ)を准擬(なずら)ふ。故以(ゆえ)に挽歌の類に載す。(右の5首挽歌ではないが、哀傷の伊があるので挽歌になぞらえてここに載せたものと解する[山田孝雄博士]) (参考資料4)

ここでは、「万葉集編纂者には一定の編纂の自由があった」と理解する。
  • 本来の挽歌ではない歌を挽歌の冒頭歌に選んだ
  • 冒頭2首は、政権抗争の犠牲者・有馬皇子の歌である(挽歌の名目を「政治問題の上位に置き、結果として政権抗争に対する批判をひそかに表現した)
  • 挽歌冒頭5種の前後に、同じく権力により運命をもてあそばれた歌人・柿本人麻呂関係の歌を採録した(第131~140および146歌)。 ここにも権力に対する批判の精神が伺える。
冒頭5首につづく第146歌(のち見むと君が結べる岩代(いはしろ)の小松がうれをまた見けむかも)は、内容としては冒頭5首と同等であり、内容だけから見れば冒頭5首左註の対象とするべきである。 しかし、結果として[冒頭5首および左註+第146歌]となったのは、以下の理由によるものと理解できる。

  • 冒頭5首を採録後、人麻呂の第146歌が見つかり、追加採録された
  • このことは、人麻呂が万葉集の編纂に直接かかわっていないことを示す
  • 同時に、編纂者が人麻呂の歌およびその精神を自身の理解と同程度に重視していることを示している
以上の理由により、ここでは人麻呂と編纂者の精神の区別をせずに、それを同一として検討することとしたい。

[top] ⇔ [next]

1.「万葉」は「万の言の葉(よろづのことのは)」か「万世(よろづのよ)」か?

[新日本古典文学大系 万葉集一](参考文献3)の冒頭に以下の記述がある。

鎌倉時代の仙覚は、「万葉」を「ヨロズノコトノハ」(万葉集仮名序)とした(仙覚「万葉集注釈」)
契沖は、「仙覚の説をさらに詳細に述べ」「此の集万世マデモ伝ハリネト祝テ名ヅケタルカ」(契沖「万葉代匠記」[精選本])と説いた。


参考資料3では、以下のように結論している。

「何何集」とは、「何何」を「集」める書物という意味である。したがって、「万葉集」は、「万葉」を「集」めたものである。「万葉」を「万世(よろづのよ)」という契沖の説は、明確に否定されるべき。ただし、「万葉」を「万世」と理解し、「万世の作品」を含意するものとした上で、万世の古(いにしえ)より伝わった歌を集めるもの、あるいは、永遠に伝わるべき不朽の名作を集めるものという解釈が、なお可能である。


ここでは、「万葉」は「よろづのことのは」と「よろづのよ」を掛けて、両方の意味を持たせて使われていると理解する。

さらに、「よろづのよ」には「万葉集」編纂以前の時代をも含み、「万葉集」は「後世を含め、身分を問わず、あらゆる時代のすぐれた歌を集め、「倭(やまと)の精神遺産」の記録としての歌集」との意味と希望をも持たせたものと理解したい。

その精神があるからこそ、巻一・巻頭歌の「雄略天皇の歌」が採用されたのではないか?

この歌の前半部分は、民謡として残っていた部分を、編者が権力者の立場を立てて「天皇」の歌の前半として掲載したが、その背景には「倭(やまと)歌」の源泉の一つである民衆に受け継がれた歌を、正当な評価と尊敬をこめて冒頭歌の前半部分に採録されたものと理解したい。

[top] ⇔ [next]

万葉集 第141~145歌 (巻二・挽歌)

自己設定目標:
  • 「万葉」とは「よろづのことのは」か「万世(よろづのよ)」か?
  • 「挽歌」とは何か?
  • データベース利用の試み

参考資料:
  • 仙覚全集(万葉集叢書)臨川書店 1971
  • 万葉代匠記 第1巻 早稲田大学出版部 1925
  • 万葉集 鶴久・森山隆 (株)おうふう 初版 1972
  • 万葉集一・(日本古典文学大系) 高木市之助・五味智英・大野晋 岩波書店 1957
  • 万葉集一・第1巻(新 本古典文学大系)  佐竹昭広・山田英雄・工藤動力男・大谷雅夫・山崎福之 岩波書店 1999
  • 「日本人はるかな旅」展 国立博物館バーチャル展示室 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/index.html 2001
  • 万葉集総索引 (CD-ROM) 古典検索刊行会編 塙書房 2009

自己設定目標についての結論:

万葉集:

「万葉」には、「よろづのことのは」と「よろづのよ」の二つの意味が込められている。 万葉集の歌集名には「後世を含め、身分を問わず、あらゆる時代のすぐれた歌を集め、『倭(やまと)の精神遺産』の記録としての歌集」の意味と希望を持たせたものと理解できる。 (発表内容1)

また、「よろづのよ」には、倭(やまと言葉)表記・倭(やまと)歌の形式の確定に参画した渡来人・帰化人・その二世以降の「倭」での活動が文化的により重要であった、東アジアの人々と「倭定住民」との協力の、万葉編集以前の時代をも含むとの意識も含まれていた。 (同上)

「挽歌」は、「柩(ひつぎ)を引くときの歌」の原義より、より広い意味を持つ「部立て」の名称とされた。 万葉集編纂者の頭には、文字化ができず収録に失敗し、あるいは政変の中、失われた万葉集以前の膨大な歌と、倭(やまと)言葉表記システム確定の過程での「文字化の規則」の、記録として残っていない記憶がある。 挽歌とは、これらに関与した人々について、その正当な評価の気持ちも秘められていると理解できる。 (発表内容2、3)

記紀と同様に、万葉集には権力(天皇制)正当化の側面を持つ。 同時に、意識されてはいないが、はっきりと表明されている「権力および権力による抑圧への批判と抵抗、東アジアの中の「倭(やまと)」の意識、民族的精神遺産保存の主張、歴史の中で失われた歌への挽歌、平和と自由への憧れ」などの諸側面がある。 (発表内容3)

柿本人麻呂は、その精神を持っていたからこそ、処刑の運命を担うことになった。 あるいは、少なくとも自身の最後を知ることのできない立場を受け入れた(巻三・第264歌)。 (発表内容6)

人麻呂の歌は、現代でも最も人間らしい、人間の尊厳を自身の運命の上に置いた精神の反映である。 人麻呂を重視した万葉集もまた、その精神を重視しているといえる。 (同上)

万葉集の源流は西にある。 さらに、その源は人類発生につながり、ヒトのDNA・諸文化の流れの中で、日本語や記紀・万葉などの古代記録は誕生した。 記紀・万葉などの文字記録は、日本人、日本語の誕生にも関する課題をも提供している。 (発表内容7)


データベース:

検索可能なデータベースを積極的に利用するべきであると同時に、学会として古代記録や各種研究のデータベース化を組織的に拡充するべきである。 (添付資料)

(伝統と文化を守る国の立場から、歴史・考古学などの隣接諸科学をも含めた国文学研究予算を拡充するべきである)


その他:

宮内庁管理の「古墳を含めた諸歴史遺産」研究の制限をはずすべきであり、歴史資料の隠匿・改ざん・破棄などを許すべきではない。 北京原人の頭蓋骨は、対中侵略戦争の中で日本軍が関与した過程で失われた。 戦争は、人間だけではなく、文化遺産をも破壊する。 植民地支配・侵略戦争の結果である略奪文化財は、それを生んだ諸民族に返却するべきであり、それが自民族文化を大切にすることでもある。

日本の考古学の分野では、少なくともエジプトのレベルまでは追いつくべきである。


発表内容:
  1. 「万葉」は「万の言の葉(よろづのことのは)」か「万世(よろづのよ)」か?
  2. 「挽歌」とは、何か?
  3. 人麻呂と万葉集は、挽歌で何を傷んだのか?
  4. 万葉集の歌は、歌として完成した形を持っている
  5. 万葉集以前の歌は、どういう歌であったか?
  6. 人麻呂は、どのように歌の技法をみがき、倭(やまと)歌を発展させたのか?
  7. 万葉集は、その源流をどこに求め、どんな課題を提供しているか?
  8. 万葉集は、失われた歌への挽歌、抑圧への抵抗、自由へのあこがれの詩集である
  9. データベースについて(添付参考資料参照)
[top] ⇔ [進む]