2011年6月9日木曜日

6.人麻呂は、どのように歌の技法をみがき、倭(やまと)歌を発展させたのか?

第146歌は、巻二・挽歌冒頭第6首である。

後見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを またも見むかも (146)

この歌は、巻二・挽歌冒頭の有馬皇子の第141歌を受けている。

磐代の 濱松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む (141)

これは、人麻呂が同時代の歌に精通していることを示している。 どのようなルートを通じてか? 少なくとも、万葉集編纂者となんらかの情報交換があり、データへの自由なアクセスが認められていたことを示す。

同 時に、人麻呂の歌の内容と質から見れば、彼は万葉以前の歌にも精通していたし、倭(やまと)言葉の表記法の諸規則にも通じていた。 これは、現在では残っ ていない、それらの諸データや関係者とも情報交換があり、データへの自由なアクセスが認められていたことを示す。 ただし、それらの諸データは、人麻呂の 時代に政変の過程で大部分が消失している。

民族の精神遺産の消失と、精神遺産を残し、発展させなければならない思いが、万葉集編纂者と人麻呂の思いのひとつでもあったと理解したい。 それが万葉集編纂の意図・要因のひとつである。

ここから、万葉集と人麻呂は倭(やまと)民族の精神の継承者であり、発展者であった。 そこには、渡来人と在来人の区別意識はなかった。 権力への反抗の意識もなかったが、同時に権力による抑圧からの苦しみ・自由へのあこがれも同時に共存していた。

データへのアクセスと、権力による抑圧や戦争による苦しみ、そこから生じる自由・平和への直接表現はできないが、心の底からの思い、平行する愛する女性との離別をはさんだ愛、それが人麻呂の歌の技法のもとであり、倭(やまと)歌発展の原動力であった。

その思いは、万葉編纂者も人麻呂と共有していた。 そこに人麻呂が万葉集で重視されている理由がある。

その意味で、現代は人麻呂と万葉集をまだ超えてはいない。

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