2011年6月10日金曜日

8.万葉集は、失われた歌への挽歌、抑圧への抵抗、自由へのあこがれの詩集である

巻二・挽歌冒頭5首をめぐって種々検討してみると、万葉集に関して以下の理解をしたいとの気持ちを抑えることができない。 これも、今後の課題である。

  • 万葉集は、日本の古典であり、人麻呂・編纂者にとっては自分が属する倭(やまと)民族の文化であり、歴史であり、精神であった
  • それは東アジアの中の日本としての倭(やまと)の存在意義でもあった
  • 同 時に指導者・権力者を中心とする民族統合の象徴であった。 他方では公的に意識はされなかったが、権力抗争の中で失われた精神遺産への挽歌、権力者による 抑圧と政争・戦争に対する反感・抵抗、自由へのあこがれの詩集でもあった(その要素は、相聞・挽歌の質が強調されればされるほど、結果としてはっきりと現 れてこざるを得ない)
  • その意味で、万葉集は古典であると同時に、現代の文学でもある ─ 人麻呂は、古代の詩人でもあるが、現代の詩人でもある
  • 人麻呂が真に古典となるときは、日本に文芸復興の段階がくるのかもしれないが、それは日本人・日本語の起源が科学的に解明された後のことであるのかもしれない ・・・
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